観光客に案内されると結構発見の連続だ

2008年12月10日(水)〈都市の鼓動〜リレーコラム〉19 中澤昭典 「特に何もない」が心地よい盛岡の日常:盛岡タイムス
http://www.morioka-times.com/news/2008/0812/10/08121003.htm

「何も無い」なんてのは謙遜で言っているのであって、ローカルなネタを「有名ですよ」なんて言い放つ馬鹿に見られたくない故の事だと思うんだよな。
それに「いい街ですね」なんてのはそこで実際に生活しない前提なら、どこの田舎や都会に行っても言えるだろう。
例えば、都市生活者が漁村の駅で降りて、駅前で深呼吸。その清々しさに
「いい街ですね」
その日は旅館で、これでもかってくらいの蟹を食べて
「いい街ですね」
なんて具合に。
「いい街ですね」なんてのは、自分のプロフィールに「趣味は読書と映画鑑賞」って書くくらいどうでもいい発言なのだ。要するに何も感想は無いけど、聞かれたから答えたくらいの意味だ。簡単に言えばお世辞だ。

中澤さんは多分、このコラムを書くために大好きな盛岡を否定したんだろうけど、盛岡には美しい町並も名所旧跡も、すごい観光施設も自慢できるような文化施設も、ほかから買い物に来るような商店街やショッピングセンターもあるから安心して欲しい。
歩道は確かに狭かったり、無かったりするけど、それは全国大抵の都市にある共通した悩みだから、後ろに目が付いていないほぼ全ての日本人は気にしてないと思う。歩道の有無を気にするなら蔵の町並みで有名な川越はとっくに人々から相手にされていないと思う。
では何が「いい街ですね」と言わせているのだろうか。
それは最初に言ったようにお世辞です。では「いい街ですね」以上の感想を抱いてもらうにはどうしたらいいか。
それは、いい感じの喫茶店だったり、普段誰かが感動も無く眺めている岩手山だったり、鮭のぼる川の存在だったりもするし、千疋屋で買うより遥かに安くて美味しい果物の存在だったり、大きな唐揚げを出す食堂の存在とか、適度な密度を保った中心部の存在とかをアピールするのもいい。中澤さんの言う「心地よい日常」ってやつが来盛してきた人には新鮮に映る事でしょう。でもさ、生活するうえでは安い賃金や、社交性の無い人ばかりで盛岡が嫌いになる時の方が私は多いので、その辺りも含めて、酸いも甘いも案内すると多分、「いい街ですね」以上の感想をもらえると思いますよ。
自分の嫌な思い出を元に案内する街ってのもなんだかなぁと書いてて思ったのですが、「嫌な思い出」を歴史と言い換えれば厚みも増しそうです。私の場合、「嫌な思い出」ってのが人に起因することが大半なので、例えばわざと知らない振りをして、地元の人に道を聞くのもいいです。旅行者は現地の人との交流を求めています。仮に親切な人にめぐり合えたなら旅行者も案内人(ここでは私)も「盛岡っていい街だなぁ」とお世辞抜きに思えるはずです。
因みにこの手の、旅行者視点での盛岡(岩手)のいいところ、いい体験は本やネットでよく見るので、参考にするといいかもです。
また、生活と旅行は全然違うので、旅行者の発言をきっかけとして、地元の人に「我々が住んでいる街は、こんなに良いんだ」と言う事には何の意味も無いと思います。
旅行者:「いい街ですね」
地元民:「じゃ、住むか」
旅行者:「いや、それはちょっと。。。」

最後に私も、本はアマゾンで検索して近くの本屋さんに注文することにしていましたが、その本屋が最近閉店しました。それはまさに「みみずく書房」なのです。
「いい街」は小さな本屋一つ満足に維持出来ないのです。
「飯が食える!」ってのが住む上でのいい街ですわ。
みみずく書房さんが飯が食えなくて閉店したのかは知りませんがね。