高架道路は何処から始まったのだろう

製紙工場誘致の計画に始まり、現在は既存街区と同じ位の街を新たに作り出そうとして稼働中の本宮地区。因みに、製紙工場の話は伝聞なので、確証は無い。
そこと既存街区を結ぶ道路が開運橋飯岡線と言われる道路。
その道路の計画が最近になって縮小された。
市役所移転の資金も無いみたいだし、いろんな計画が財政の厳しさを理由に縮小されているから道路も立体交差から平面になるのかなぁとおもったら、縮小した計画は私が想像していた縮小前の姿だった。つまり実際の縮小前の計画がかなり大きかったのだ。

「高架式」見直し 盛岡西バイパス岩手日報
盛岡西バイパス、残り区間は平面整備 開運橋飯岡線と一体で:盛岡タイムス

計画時の図を見つけることができないのでどこから高架道路が延びる予定だったのか分からないけど、盛南大橋の本宮側歩道の両脇にある意味不明な砂利スペースって、もしかして高架道路の取り付け部分の為に存在していたのだろうか。
結局、縮小しても立体交差になるようですが、縮小して無かったらどんな道ができてたんでしょう。
完成したらその区間だけ道路標識が緑だったら面白かったなぁ
この話題を受けて、
「その土地に敷こう!」
なんて言い始める人がいたらなんかアレだけど、それはまた別の機会に。